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元山海軍航空隊の航跡をたどり、先輩の奮闘を残そうとしたのだが余りにも広範囲であり、とても全容を明かにすることは不可能の様なので分っただけを記す。

元山海軍航空隊


1940年(昭和15年)10月1日編成。
  陸攻48機{司令;伊沢石之助大佐。飛行隊長;三原元一少佐}

1941年(昭和16年)1月15日 第22航空戦隊(略22航戦)は、「4月10日−対米戦」を意識して南洋(パラオ、サイパン、トラック、マ−シャル諸島)で訓練に励む。昭和16年4月末、上海経由漢口に進出

・4月29日恩施攻撃を実施
・5月3、9、10、16日九六陸攻54機で重慶爆撃。
・7月25日一式陸攻到着ー8月11日一式陸攻初陣
・8月30日、31日約80機ー重慶、成都爆撃を実施する

日本海軍陸上攻撃機に依る中国奥地爆撃の最後となる(対米英戦準備の為)。


マレー方面に元山空九六陸航36機{司令;前田孝成大佐、先任分隊長;石原薫大尉}。
ジャワ攻略以降、元山空は1月30日九六陸攻をサイゴンよりボルネオ、クチンに移動。2月2日同じく11機クチンに移動九六陸攻計31機となる。

シンガポール、マレー半島、スマトラのパレンバンが日本側の手に落ちたので、これまでその航空作戦を担当していた22航戦は、2月21日以降美幌空以外は蘭印方面に組みいれられる。
西部ジャワに対する攻撃と歩調を合わせる22航戦は元山空の33機と、24日にゲルンバンに移動。3月7日〜3月10日に元山空はビルマ作戦参加の為サイゴンへ、同13日バンコクに移動する。

22航戦に美幌空(九六陸攻36機)元山空(九六陸攻36機。艦戦36機)21航戦鹿屋空。23航戦高雄空。24航戦千歳空。一空。25航戦。四空。二六航戦木更津空。三沢空。計九個航空隊
陸航総数372機の最高となる牧野滋次大尉の率いる元山空一個中隊は高雄空に転属と成る。

4月20日東南アジアから転用された元山空の第一陣9機ラバウルに到着し、残りもラバウルに徐々に到着する。
5月1日ブナカウナ飛行場に、元山空九六陸航16機到着する。
5月7日巡洋艦(衣笠)の水上機が発見・ラバウルより離陸した陸航が07:35に戦艦2大巡2駆逐艦2と接触。
09:00元山空陸航20機250k爆弾2発を登載して出発。又同19機も高度4千米から4隻の艦船を爆撃。一隻に二〜三弾命中沈没を報告、元山空機三機被弾と軽微。( 米側は命中弾なしとのこと))−−−サンゴ海海戦
5月11日元山空ポートモレスビー爆撃ー19機。
5月18日元山空18機モレスビー爆撃;対空砲火で13機被弾。
5月19日元山空18機モレスビー飛行場攻撃
6月ミッドウエイ海戦−−元山空哨戒任務に従事する
元山空は1、17、18、26日18〜20機でポートモレスビー攻撃を実施する。
6月30日元山空内地に戻る。

11月1日海軍航空隊再編成
 (作戦部隊が番号航空隊となる三桁の番号の航空隊呼称で初めの桁が機種を表し陸航部隊は7がつく)

751空(元の鹿屋空)、753空(高雄空)、701空(美幌空)、702空(四空)、703空(千歳空)、705空(三沢空)、707空(木更津空)、752空(一空)、755空(元山空)と呼称される。

元山戦闘機隊は9月20日付けで252空となつていた。

又10月1日付けで一飛曹・二飛曹・三飛曹がそれぞれ上飛曹・一飛曹・二飛曹と呼称される。

1943年(昭和18年)3月15日、703空(千歳空)解隊。
12月1日、707空(木更津空)廃止、隊員は705空へ。
1月30日、レンネル沖海戦---米艦船は対空砲火に近接信管の使用を始める。
4月5日、い号作戦発動、4月15日終わる。
12月1日、702空解体、隊員は751空へ。
1942年(昭和17年)、元山空戦闘機隊マレー方面へ移動。元山空陸航隊(定数36機予備12機)ビルマより南東方面に移動。

7月上旬ミッドウエイ海戦時、南東方面から三沢に帰還した元山空は8月米軍がガダルカナル上陸で九六陸航二個航空隊と元山空戦闘機隊の22航戦が本土で唯一の航空部隊となり木更津に移動。
元山空陸航隊は三沢より哨戒を実施。10月23日木更津に移動哨戒。

1942年末、755空(元山空)がマーシャル諸島のルオットに進出、一部ナウルへ。
2月18日、701空(美幌空)解隊、一部九六陸航6機755空に編入。これで常備27機予備9機から、常備36機予備12機となり755空の戦力は、完備47機・整備中4機の九六陸航計51機となる。塔乗員A20組B18組C9組の計47組である。

3月25日夜、米飛行艇がナウルを空襲。755空12機、252空零戦8機の内、可動機数は陸航6機零戦0機となり、タロアより陸航3機、252空はルオットより零戦を送って補充する。

4月21日、ナウルB24・22機に爆撃され、陸攻炎上1・中破5、零戦大小破3の被害を受ける。
6月6日、22航戦は第一基地航空部隊(11航艦)の指揮下を離れ、東方部隊に編入され、8月5日東方部隊が解散して原隊復帰になるまで活動する。

1943年(昭和18年)8月15日、第4艦隊は内南洋部隊から内南洋方面部隊と呼ばれる様になり、この下で航空作戦を行うのは22航戦と802空で内南洋方面航空部隊と呼ばれる。
5月下旬より、755空(元山空)の96陸攻を一式陸攻に変更する。
8月27日に一式が5機初めて到着
9月1日付けの戦時編成の改定で、755空は常用陸攻36機補用12機から、常用45機補用15機に増勢されたが8月15日現在の96陸攻51機が一式陸攻60機となるのには時間を必要とした。
11月15日現在の内南洋航空兵力は755空(定数陸攻60機)が実働40機、252空(定数艦戦60機)が実働46機であった。

10月6日頃には操縦員の不足で755空でも単繰(繰縦員一名)が普通となる。
11月21日未明、ギルバート諸島のタラワとマキンに米軍が上陸し、マキンは24に・タラワは米軍に大きな損害を与えたが、25日に玉砕しタラワにいた755空隊員石原飛長以下戦死。

11月22日の755空の使用可能陸攻は11機となり、11月15日現在に較べて戦力はほぼ4分の1となる。ギルバート航空戦で消耗がはげしかった755空は、753空の到着を待って22航戦司令官と共にトラック経由でテニアンに移動再建を図る。

1944年昭和19年 銀河
1940年(昭和15年)頃より開発。当時やっと実戦に出た零戦より早く、3000海里(5600キロ)の航続距離、急降下爆撃可能の条件を満たす。
1943年(昭和18ねん)8月より大量生産され、中西で1002機、川西で97機生産される。
戦時中、九六陸攻は1048機生産され、一式陸攻は2446機、銀河は1100機生産された。

同年1月29日、中部太平洋方面所在の航空兵力は187機で、うちテニアンの755空(元山空)10機トラックの755空6機他計46機である。

マーシャル諸島の島々に孤立した搭乗員の収容の為、2月5日夜755空陸攻3機がマロエラップから、802飛行艇1機がウオッゼから等収容する。
陸攻関係ではマロエラップから755空72名、ブラウンから752空102名、2月9日755空陸攻2機がミレから62名、2月17日755空2機がナウルから40名の整備員を収容した。

1月30日、マーシャル空襲の報告のあった日に755空12機、テニアンから春島基地に進出哨戒する。 2月中旬トラックには陸攻192機、マリアナには74機、パラオに16機が配備されていた。
2月17日、トラック空襲され船舶34隻、艦艇9隻撃沈され、又飛行機338機損失する。
当時、海軍向け飛行機の生産機数は、1月から3月迄2383機、トラックでの損失は13日分の海軍機全部が失われたことになる。

2月23日、マリアナ方面、特にサイパン・テニアンは激しい空襲を受け、計125機損失、残存機755空5機、751空4機を含めて12機となる。
これまで、飛行隊の空地分離が検討されていたが、3月4日に発令されてそれまでの航空隊は特設飛行隊と飛行機のない航空隊に分離することになりテニアンで同居していた755空と751空の基幹員で攻撃701飛行隊(k701)が編成され755空と751空の練成員で攻撃704飛行隊(k704)が編成される。

k701飛行隊長足立次郎少佐、k704飛行隊長壱岐春記大尉、705空は艦攻隊となり、以前の705空陸攻隊(三沢空)はk706・隊長巌谷二三男少佐、そしてk701とk706は755空(元山空)所属となり、k704は751空(鹿屋空)所属となる。
マリアナ航空戦が終わりに近い7月10日付けで、この戦に消耗した航空部隊の再編を行い、755空等七個の陸爆または陸攻の航空隊とk706等四飛行隊が廃止される。尚、縦来の二航艦には762空新編の陸爆48機のk406空等が付属していた。 つまり実戦部隊として陸爆が四個飛行隊(定数は予備を含めて合計129機)陸攻が四個飛行隊と二個航空隊となる。

1945年(昭和20年)2月末には南方〜日本間の対潜哨戒の任を{東海}哨戒機に主力の座を譲り、5月上旬元山に移動、6月には半数が小松に移動して日本海の哨戒に従事しながら終戦となる。

各空の略歴
762空
鹿屋で1944年(昭和19年)2月15日開隊、定数陸攻48機、司令柴田文三大佐
k708も鹿屋を基地として、飛行隊長長井大尉が762空から任命さる陸攻定数48機
k405は旧524空で、1944年3月15日豊橋で編成された三番目の陸爆部隊7月10日解隊762空編入となる。

新編のk406は、旧522空で522空は1944年(昭和19年)3月1日木更津で開隊した二番目の陸爆で定数96機、7月10日解隊となり、飛行隊はk406陸爆48機となり飛行隊長は8月1日付けで壱岐春記少佐となり、762空に編入となる。関東地方では752空のK703が木更津から哨戒にでており、10月に入ってK703がT部隊に変わって762空所属となる。

第15航空隊(第二代)
1939年(昭和14年)11月15日鹿屋で編成されて、華南に進出し作戦に従事。1940年11月15日で解隊され飛行隊を元山空に移した

元山航空隊、<第755航空隊・755空>
1940年(昭和15年)11月に編成された陸攻・艦戦の混成部隊で、1942年(昭和17年)4月20日に定数36機の陸攻隊だけがラバウルに進出−−7月5日に木更津に戻るまで南東方面航空戦に参加した。9月20日には戦闘機隊を分離し、11月1日付けで755空と改称された。
12月19日にはルオットに進出し、内南洋の航空戦で消耗し、翌(昭和18年)3月4日にグアムに後退しマリアナ航空戦に参加して7月10日付けで解隊した。




−−諺 : タネ−−
権兵衛が種子まきや烏がほじくる。
三度に一度は追はずばなるまい (烏の記憶力はすぐれている)。烏は種子を蒔いた人が姿を消すまで覚えている。鼠は10秒間しか覚えていない。鶏は2歩歩くと忘れる。

 狐は4匹、狸は6匹、人間は果して何人か? 一度の出産が狐は4匹、狸は6匹、それ以下であると親が子をなめて可愛がりす ぎるので子は親離れ出来ず環境になじめない為、自立出来ないので 滅んでしまう。
 人間も少産であると親離れ、子離れが出来ず社会人として一人前になりきらない、だが其の限界が何人であるか は分からない。






 昭和20年5月27日付けでk406飛行隊付となり、松島海軍航空隊より美保基地に転勤となる。転勤した翌日からもう降爆訓練であった、今迄九六陸攻、或は一式陸攻で水平爆撃、雷撃訓練しかしたことのない者が緩降下爆撃、急降下爆撃の訓練である。緩降下爆撃は中攻でも高度を下げる為、爆撃はとも角緩降下は馴れていたので大したことはなかったが、急降下となるともう駄目。胃袋は喉迄あがってくるし、頭には血が上がって目ん玉は痛く、何も見えなくなるし、第一、飛行機の降下が早くて手がそれに追いつかない。押さえているつもりの電鍵が離れていたりして電波が発信されず。
 爆弾投下後急上昇の時は、それと反対で体は押さえつけられ身動きは出来ず目の前は真っ黒で何も見えない、目はあけておけといわれるのだが開けているのか閉じているのか?電鍵は離そうとするのだが手が押さえつけられて動かず、電波は発信されっ放しである。この様な事を、午前・午後と二〜三度づつ位やらされると体はもうぐったりとなる。おまけに、二人乗りの小さな飛行機である。偵察と電信とを一人 でやらねばならず、空戦の時には機銃手にもなりと、とにかく忙しい。
 之の様な訓練を二、三回続けたある日、私は知らなかったのだが、相手が私を憶えていてくれて声をかけられました、藤井一飛曹だっ たのです。
 お互いに元気な事を喜び合ったのですが、飛行場でのこと、ゆっくりと話し会うこともできず、彼は銀河で今から降爆訓練だ から今夜ゆっくり話そうと言って別れました。





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