存在した航空隊・ホーム  >  銀河2機夜間攻撃に発進
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    沖縄戦に762空の銀河2機夜間攻撃に発進。


昭和20年6月5日沖縄戦に762空の銀河2機夜間攻撃に発進。          
天候悪化の為引き返す。 6月8日762空は4機お宮崎から19時 20分に発進(鹿屋は空
襲で使用不能の為)ー1機は引き返し1機は 不明となり効果も不明。 6月11日同空銀河
4機(美保より進 出した機)宮崎より発進ー1機は魚雷お投下(米駆逐艦に)したが命中せず
・3機は天候不良で引返す。 6月26日以降沖縄航空戦は続 けているだけであり大勢はすでに
決していた                                   
美保に派遣された762航空隊の銀河は4機お単位として緩降下爆撃 お行ったり9機お単位と
して大分の沖で夜間雷撃の訓練お繰り返した 美保空にあるものは本土決戦用の兵力として特に優
遇された。                                   
だから数日おきに横須賀空技廠で完成したものが厚木から1機づつ美 保へ送られてきた。
6月末762空は島根県の出雲に近い大社へ後退していた。ー7月         
24日米第四空母部隊は美保お爆撃した。                    
美保は762空の銀河が以前はいたが大社に移動後だったので危うく 助かった。7月27日に
も爆撃される。                                 
                                        
(私の記憶では大社ではなく新川基地だったと思う100米も歩く と水辺に出る様な砂地
の飛行場であった。 或は大社と新川に分散 していたのか大社お新川基地と言っていたのか・
そこらへんのこと は良く分らない。 新しい兵舎で終戦・復員するまで美保と新川の 間お
動いていた様に思う)「美保基地が空襲お受けたのは日中であ った天気は良く晴れていた・山
の方に避難<退避>していて飛行場 の上空は艦載機が飛び回り・修理中の飛行機やら格納庫が
燃えあが っている・兵舎はもちろんのこと焼けている。その中お敵飛行機が 乱舞し・中の
海の方に突っ込んで行く飛行場上空2ーー300米位 の所で胴体から火おふき突っこんでいく
・ あっ当たった と喜ぶ のだが落ちたであろう所には火災も煙も余りあがらない 
大体同じ位の所で同じ位の高さで飛行機は皆火お吹いて突っ込んで 行くのだが・どうも落
ちた様ではない。 相手が小型機だからこち らに機首が向いていない限り弾丸は飛んでこない
ので安心して見て いられるのだけれど・落ちたのなら火柱でも煙でももっと大きく上 るは
ずなのに不思議であった。                            
飛行機なんて爆弾と弾丸お使って仕舞うと放って置いても帰って行 くものである。ーー空
襲警報解除というーー空襲が終わって飛行場 に戻ってみると、よくもまあこんなに、と思う位
何も彼も燃えてし まったり壊れてしまったり:ベニヤ板で作ったチャチなオトリ機ま で全
部灰になっていた。 その時になって初めて飛行機の胴体から 火お吹くのはロケット弾だと言
うことおきかされる。 今で言う空 対地ロケット弾だろうか? 話には聞いてはいたが見た
のは初め てであった。                            
又其の時撃墜された飛行機の搭乗員が落下傘で・中の海・に降下し た時捕虜にする為に船
お出そうとすると上空の艦載機が銃撃してく るので船も出せづ・結局米軍の水上機がきて着水
して悠々と救助し て行ったと言う事であった。新川基地ではもう一つ戦争には関係無 く私
より後期の若い搭乗員が運命と言うか片目お失明して飛行機に            
は乗れなくなり・それお悲観して自殺する為に、今考えれば突道湖 だろう、の岸辺に靴と
軍刀お置いて入水したのだろうが海軍育ちに は入水は無理、死にきれずに対岸迄泳いで仕舞っ
て行方不明となっ  てしまった。基地では大騒ぎとなり船で湖の中お探したり、私達も 地引
網お引いたりして遺体発見の手伝いおさせられたのだが・四ー 五日して隠れているのお発見さ
れ、基地に連行されて来た・前代未 門のことである。兵舎の一隅に営倉お作り収容して歩哨が
四十六時 間監視の目お光らせる、                       
私達の間では「敵前逃亡なら銃殺、単なる逃亡なら?。新川基地は 敵前なのか」と言う様
な素人裁判官の話で持ちきりであった。                      
本人は観念したのか何も話もしない様であった。 だが日がたつう ちに真相が段々と分か
ってきて批判が同情となった。                          
当時の話としては彼は夜間の離着陸訓練お終わり、若年兵である為 訓練の後片付け、夜食
の後片付け等も終えて風呂に行ったとのこと である。夜も遅くボイラーの火も消えていたのだ
ろう、風呂の湯も 少なく汚れていたので入る気にならず、ついその湯で油に汚れてい た手
と顔だけお洗って帰って寝たとの事である。 翌日から片目が 痛くて涙ばかり出るのでその翌
日許可お貰って診察お受けに行き目 薬お貰って痛い時に洗眼していたがどうにもならず再度診
察お受け た時はもう手遅れでどうにもならなかったとのことであった。      
今と違って当時としては少々の痛み等は我慢するのが当り前で(痛 い)とでも言えば「気
合いが入っとらん」と言ってバッターは貰っ たものだった。 その目が痛くなった原因と言
うのが風呂場で顔 お洗った時に淋菌が目に入ったのではないだろうかと言う事だった のだ
そうである。 本人には何の落度もないのに、死にたくもなるだろうと
後で同情したものだった。幸か不幸か軍事裁判にかけられる前に終戦となり
隊では一人壱番先に復員したが当時復員しても果して薬・或は治療は受けられただろうか? 
之も戦争の悲劇である。

762空最後の出撃 

20年8月13日 _終戦二日前約六百機の敵空母機が数波に
分かれて東京及び関東地方を襲う。
原爆が投下されて4日以上たっている
この日銀河6機が敵空母に向かう・太平洋戦争で銀河の最後の出撃となる
撃墜したと米軍は言っているが6機全部が帰投している。

沖縄へ 
沖縄航空戦では8月8日銀河の出撃が最後である。

終戦の日大社には762空の無傷の銀河60機があり本土決戦
に予定された銀河の数は75機であった・本土決戦になってい
たら私も之の1機に乗っていただろう。
終わり




海軍作戦航空隊の番号別区分け(昭和17年11月から実施)
100番台__偵察機、夜間戦闘機 




  






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