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    終戦の頃



終戦の頃、鳥取県美保基地に勤務していた私達は連日の米軍機による空襲にも馴れ艦載機は
プロペラが自分に向いていない時は絶対に弾丸は飛んで来ないと変な自信を持ち退避壕の
そば迄は行っても中には入らず味方の対空砲火と敵機の攻撃を眺めていました。
と云うのも小型機は固定銃なので弾丸は前にしか発射されない。
横とか後方には撃てないと分かっていたからでした。

それに較べると大型機は射手が何人も乗っているので、前後上下共に射撃できるので飛行機が
横を向いているから,或いは胴体を見せているからと云って、安心は出来ませんでした。

そんな或る日、ペアの三人と「えん退壕」に退避させてある銀河の電信機,帰投装置を整備
する為に乗り込み整備をしていると突然何の前触れも無く警報も出ないうちに敵の艦載機の
空襲があり、激しい銃撃の音、ロケット弾の炸裂音が響きわたり、のどかに見えていた飛行
場は一瞬のうちに修羅場となり逃げる整備兵,燃える資材等で空は煙が立ちこめ、その中を
敵機は乱舞していました。「危ない」と直感した私は飛行機から飛び降りペアの二人に何か
を云ってえん退壕から飛び出し、誘導路のそばに有った防空壕を目指して全速力で走りまし
たが、何といっても飛行服に飛行帽それに長靴をはいていては走れるものではありません。

おまけに何の隠れ場所もない誘導路、動くものを見つけたら撃って来る飛行機、逃げる後ろ
にパシッと云う着弾破裂音、咄嗟に伏せると前に又着弾音、飛び去る飛行機をみて後から来る
飛行機の居ないのを確かめて又走り出す。                     

近い様でなかなかたどり着けない防空壕、飛び去った飛行機が旋回して来るのか又激しい銃
撃音、横の方に転げたり、そのまま走ったりしてやっとたどり着いた防空壕に飛び込みホッとして
空を見ると顔も見える位に低く飛んで来て防空壕を銃撃する敵機又あわてて防空壕の
奥の方へと逃げ込むと、何とそこに有ったのは台車に積まれた航空魚雷が二本置いてありました。
目が馴れて、良く見ると安全装置は着けてあるものの信管迄ちゃんと装着されており
火薬庫に飛び込んだのと同じでした。あきらめと云うかふてぶてしいと云うのか銃撃戦はロ
ケット弾が命中すればそれで一巻の終わりと思うと気も楽になり魚雷にまたがって仰向けに
寝ころび空襲の嵐が過ぎ去るのを待ちました。

空襲警報が解除される前、爆撃音がしなくなってから、そこから抜け出し誘導路を歩きながら
飛行帽,飛行服のポケットに入れていた飛行手袋等を見つけ出し『ああ生きていたんだ』
と云う実感が湧いてきました。
えん退壕の飛行機はどうなっただろうかと思い乍ら行ってみるとペアの二人は銀河に乗ったまま
座席ベルトを締めてちゃんと座っていました。
話を聞くと、二人共空襲の間逃げ出す機会を失い、一度は機外に出たのだけれど逃げ出せず
どうせ死ぬのなら愛機と一緒にと又乗り込んで座っていたとのことでした。

その様な日が続くうち広島に新型爆弾が投下され、長崎にも投下されたとの噂が立ち、この
爆弾の光を防ぐ為、体を露出させてはいけない、屋外に出る時は必ず白い長袖を着用するこ
と、白色は光を反射するから等の注意がなされた。

昭和二十年八月十五日、その日は暑く雲一つない日であった。
美保基地から新川基地?に移動する為、搭乗員は全員集合しトラックに乗っての移動が開始される。
正午には陛下の玉音放送が有るので、それ迄に移動は完了する様にとのことであった。
           
一台のトラックに六十名位乗っていただろうか身動きの取れない皆立ったままのすしづめで
荷台の両側の人だけが辛うじて荷台のふちに腰をかけられる位であった。
私も幸か不幸かその荷台のふちに腰をかけることが出来、手は戦友の肩に或いは立っている人の
ズボンをつかんで安定を保つ位であった。道路も今の様な舗装道路ではなく凹凸道を走ってゆく。

とにかく、正午迄には移動を完了し玉音放送を聞かなくてはならないとオンボロトラックは
速度をあげる。トラックの乗員達は、玉音放送は「もっと頑張れ」とか「一億玉砕」とかの
励ましの言葉ではないだろうかと話題は賑やかであった。荷台の端に腰をかけてぼんやりと
そんな話を聞いているうちに、突然曲がり角で乗員が一斉に遠心力で反対方向に傾きトラッ
クの荷台のバリバリと云う音と共に殆どの人が社外に放り出されてしまった。
私は荷台に腰を掛けていたものだからそのまま一番先に路面にたたきつけられ、その上に次々と
人が或いは軍刀が落ちかぶさって来て身動きはおろか息も出来ない位であった。         
しかし、やっと皆が起き上がり、怪我をした人だけをトラックに乗せて、他の人は歩いて行くこととなった。
その日は不思議と空襲もなく、テクテクと歩いたのを憶えている。
胸が痛い、息をする度に肋骨が痛いと思い乍ら新川基地?で診察を受ける為に先任下士官の
許可を貰い、待っていると、どうも様子がおかしい。
歩いた為に玉音放送は聞いていないのだが、停戦だとか休戦だとか聞き馴れない言葉が
耳にとびこんでくる。
やっと、診察の番が来て軍医に事情を話すと『休戦で、しばらくは戦わないからゆっくり休め。
肋骨三本にヒビが入っている。二週間?の入室』と体にもふれず聴診器も当てずに云われ、
何がなんだか分からないまま兵舎に帰ってくると、電信員が数名『池田、お前は怪我をしたのだろう
俺が変わってやるからな』と何か不自然な恰好で云ってくる。どうも様子がおかしい。
軍医はしばらくは戦はないと云うし戦友は怪我をしているから変わってやると云う。
何を変わってくれるのだろうか。ふと、搭乗割に名前が出ているのではないかと直感し、
指揮所に行って見ると有る有る。特攻七機の搭乗割の氏名が書き出されていたその中に私の名前も。

それを見た途端に肋骨の痛いのも吹き飛び、絶対に変わらないぞと心に決め、先任下士官に
異常なしと報告をする。戦友達も、本人が診察を受けて異常なしと報告したのだから変わる
理由が無く。それぞれが特攻を志願したのではないだろうか?

その晩、司令か飛行長に特攻七機の全員が呼び出され『停戦とはなったが、休戦ではない。
敵が○○海里以内に来攻して来たら攻撃は再開する。連合艦隊は健在である。各員の奮闘を
祈る。』と云う様な訓示があり祝宴が行われた。                   
数えて二十才,体重十五貫(56d)未だ酒の味も知らず、停戦と休戦の言葉の意味もどう違
うのかも知らず。唯、知っているのは、特攻に行けば軍神になれる、今は軍神の卵であり、
敵艦に体当たりして卵が割れた時軍神として生まれ変わるのだと云う信念だけであったと思う。

翌日からすぐに猛訓練が始まり、一週間後復員する迄に二機が海中に突っ込んで殉職した。
復員する時の訓示は『お前達に休暇を与える。期間は無期限である。隊から通知の有った時
は直ちに帰隊せよ』であったと思う。五百円の一時金を貰い、熊本の○家に戻る。    
元山にはソ連の参戦で状況は全然分からず。天草は三角線が爆撃で不通とのことであったので。

未だに隊から通知がないので休暇中?である。

 (平成四年(昭和六六年)八月十五日、雨  四十七年前を思い出して記す)



 



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