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    友の殉職


中国、青島海軍航空隊飛行術練習生37期を卒業して、実施部隊である松島海軍航空隊に
配属を命じられ、同期十二,三名と中国,満州,朝鮮半島と南下し、下関から北上して松島
海軍航空隊に着いたのは昭和19年10月7日頃だったと思う。              
軍服の支給もないまま、青みがかった作業服で一見徴雇工かと間違えられる様な恰好で隊門
を入りました。
                                  
数日後、エプロンで初めて身近に見る九六式陸上攻撃機。乗り込んで眺めまわすと機内に備
えられた77粍機銃,爆撃照準器等の兵器。実戦部隊だという身震いと同時に『よしやるぞ』
と闘志がわいたのも束の間、後に云う台湾沖航空戦に出撃を命じられ、未だ九六陸攻による
初飛行はおろか飛行服も支給されないままに搭乗割に<池と名前が記入されていました。 
恐る恐る<池は池田だろうか同期の池亀兵曹だろうかと尋ねたら電信員は不足しているから
二人共行けと云われ池亀兵曹もトバッチリを受けて行く事になりました。        
練習機での訓練は受けたとはいえ実戦機、それも一度も乗ったことのない飛行機。夜、格納
庫に整備されている愛機?に乗り初めてお目に掛かる一式電信器、何が何か分からないまま
に送受信機を動かして電波はレシーバーから聞こえる。『よし受信OK』。ネオン管により
送信機も電波は発射している様だと安心してベットにもぐり込み、翌朝出撃のの訓示に『電
波は封鎖する』。電信器は打てば必ず電波は発射される、受聴器は耳につければ受信は出来
ると云われ、昨夜動かして試したばっかりに、耳はつんぼとなり声はおしとなって離陸前か
ら電信器不調。電信員は荷物となって鹿屋,台北そしてフイリッピンのクラーク飛行場に着
陸し、そこでやっと電信器を整備してもらいました。                 
大戦果をあげつつあるとの指揮所の話に興奮しながら薄暮攻撃、夜間雷撃に出撃し戦果をあ
げたつもりで松島基地に戻りました。                        
松島空では一緒に入隊した同期も入隊祝いのバッターの洗礼も終わったらしく、一人前とし
て扱われているとき、私は早くも実戦の経験者としてその後の飛行作業も楽なものでした。
池亀兵曹は転勤して戦後迄合うことは出来ませんでした。               
飛行経験がものを云う時、要務飛行,連絡飛行等,今で云う出張が多く訓練飛行はたまに夜
間離着陸訓練の時に乗る位でした。                         
そんなある時(20年3月31日)午後になって横浜空?への要務飛行の搭乗割があり飛行機を
受け取りに行くとの事で一機に二機分の乗員を乗せて行くとのことでした。       
その時は、なぜ故田司令が同乗していくのかは知らず、余程新型式の飛行機を受け取るのだ
ろう位に考えていたのですが、後で特攻命令受領の為に司令も同乗したのだと知りました。
その日は曇り空で、これなら今夜は横浜泊まり、明日帰るのだろうと思い、今夜は外出日だ
が横浜で外泊するのも悪くはないな、とのんびりした気分でいたら同期の桜井兵曹が『おい
池田、お前は今夜は外出だろう。俺は一度も要務飛行に行ったことがないから変わってくれ
ないか。』と云われた。私も別に行っても良いし、行かなくても良かったので『いいよ、指
揮所が良いと云えば変わってもよい』と返事をしました。桜井兵曹は、それから指揮所に行
って頼んだのでしょう。搭乗割は<桜となり、私は離陸を見送った後外出し矢本駅近くの薬
屋さんの家が下宿でしたので、そこでのんびりとしていました。戦時中のこと、別に行く所
はないし、灯火管制の下では何もすることはなく下宿の子供たちと遊んでいると薄暗くなっ
た頃『直ちに帰隊せよ』との連絡があり、折角の外出がフイになったと思い乍ら帰隊しました。
灯火管制下の隊門の灯は薄暗く霧かもやが立ちこめている様な中、すぐ指揮所に集合と云わ
れ軍服のまま指揮所に行くと『横浜空は霧の為着陸不能、引き返す』と連絡が有った。着陸
に支障のない様準備。連絡を密にする様に、と指示を受け指揮所横に有る通信室で連絡を取
り合いました。                                  
それ迄は事の重大さは余り考えず、引き返してくれば着陸するだけ。唯時間の問題だけだと
簡単に考えていました。                              
天候は悪くても通信状況は良好で電波は良くとれるのだけれど、全部が暗号電文。それを、
又暗号解読によって平文になおし指揮所へ連絡をする。指揮所の指示を又暗号になおして打電する。
外はもう真っ暗、なんとなく不安がかすめてくる。誘導灯を持って、整備員が滑走路を走っ
て行くのが指揮所からも薄ぼんやりと見えている。回りの空気が何とはなしに緊張感にあふ
れている様だ。何故この様な非常事態の時に暗号を打たなければならないのか?平文での交
信は出来ないのだろうか。励ましの言葉は打てないのだろうか等を考えていても時間は虚し
く過ぎていく。燃料はそう余分には積んでいないだろうにと心配してみてもどうにもならな
い。そのうちに、『我機位不明測定頼む』と入電があり、スワとばかりに測定準備をして待
ったのだけれど、これが運命と云うものだろうか飛行機には長波のアンテナを取り付けてい
ないことがわかり、地上では短波の測定は不能と云う事で機位測定も出来ず皆沈痛の表情で
だまってしまう。                                 
唯電鍵の音が時々その静けさを破る。だが、さすがベテランの偵察員が搭乗していた為にか
やがて爆音が聞こえ、上空に近づいてくる様だった。すぐ指揮所から探照灯照射が命じられ
て三基か四基が一斉に上空を照射して基地の所在を知らせるのだがやはり霧か雲かただ空を
明るくするだけで反応はない。                           
爆音は上空を通過して遠くに去って行く。爆音が消えてからは余り打電もなく機内の様子は
分からないが搭乗員はどんな気持ちだったろうか。松島空は陸から海へ向かって着陸する為
高度を下げられなかったのか、或いは機位が不明であった為にそうであったのかは分からない。
連絡を取り乍ら、何故あの時、桜井兵曹と搭乗割を変わったのかと無念さ,後悔で一杯で飛
行機の燃料が切れた後も、不時着しても電波が入りはしないかと電信機にかじりついていた
ことをはっきりと覚えている。                           
翌日は雨の為捜査飛行は中止となり、その翌日に捜査飛行。昼食を持って捜査を続けたが海
面は唯々白い波が泡立っているばかりであった。                   
14期予備学生の記録によれば故田司令の遺体が福島県に漂着したとありますが、捜査はそこ
迄はしていないと思う。当時、私が聞いたのは一名の遺体が漂着したとのみ聞き、故田司令
とは知りませんでした。                              
戦後今日私が有るのは、桜井二飛曹が私の身代わりになってくれたお蔭と、彼の冥福を折に
つけ時につけ祈っています。                            
戦後47年、記憶もうすれ歴史の彼方へ去って行く時、桜井兵曹と同乗したもう一人の電信員
鎌田飛長の写真を手元に持っているのが幸いである。                 
                                         
 (◇松島海軍航空隊誌に寄稿する為に記す◇)




  








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