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 (11) 現実はそんな感傷にふける間もなく


 だが現実はそんな感傷にふける間もなく、着陸して、駐機して(鹿児島空は戦闘機隊の虎部隊が訓練中であった)指揮所に行くと、虎部隊の飛行長と云うか隊長と云うか、お偉い方から大目玉。曰く「低空から味方識別もせず、飛行場上空を旋回もせず、そのまま突っ込んで着陸するとは何事か。滑走路に戦闘機がいたらどうするのか」と。

 また鹿児島空の滑走路は埋め立てなので、滑走路も短く、中攻は端から端まで行かなければ止まらない位の短い滑走路である。お偉方がそんなことを云ったって、こちらは命がけ。何はとも角、着陸したのだからエンヂンの整備が第一である。それに操縦員はどうやら鹿屋空と勘違いしている様だし。エンヂンの整備が済み次第に飛び上らなければならない。

 飛行機の整備中に抜け出して、予科練の兵舎の方に行ってみるが、もう全部の兵舎を尋ねて回る時間もないし教えて貰った教員が居るのかどうかも分らないし。又飛行服を着たまま兵舎の中をうろうろすれば練習生,教員から変な目で見られそうなので早々に退散する。

 やっと飛行機の整備が終わり離陸するのが又大変。滑走路の端ぎりぎり迄行ってのエンヂン全開。砂ボコリを立てて離陸し、錦江湾(鹿児島湾)をひとまたぎして脚も上げず鹿屋空に着陸する。その間、5分もたっていたろうか。鹿屋空に一泊したのだけれど、若(ジャク)の私は飛行機の中に泊まって泥棒に注意する様にと云われ、他の人は外泊、私だけが機内に一泊する。

 その訳は、もう飛行機の部品やら私物の衣類、官給品の道具類が鹿屋の様な前進基地では不足し、私たちが乗って来た様なオンボロ飛行機は部品やら道具を外して他に持って行って使われるので、それを防ぐ為に機内に泊まらなければならないとの事であった。だが、機内は寝ても良い様には作られては居らず、操縦席に座ってウトウトするだけである。

 幸いに、招かざる客も来ず、翌朝10時頃、飛び立つ。  天気予報も弁当も十分。絶好の飛行機日和に恵まれて、太平洋の陸地沿いに北上。空中の見張り等の緊張感も殆んどなく、横浜空?で燃料補給して、午後なつかしの基地、松島空に着陸する。松島空を離陸してから2週間位たっていただろうか。一緒に着任した同期生たちの顔を見て、「あー、良かった」と帰って来た実感が湧く。 だが、一緒に離陸した池亀兵曹はもう移動していて、戦後まで会う機会はなかった。

 翌日、飛行機を見に、操縦員と3人で飛行場に行く。機長の予備仕官は報告書作成とかで来なかった様に思う。飛行機に行って驚いた事に、整備の下士官がニヤニヤ笑いながら荷物をどうするかと聞きにきたことであった。「荷物?」 何も積んではないはずだ。私物、必要な道具は皆降ろしたはずだがと思って聞いていたら、何と大きな荷物が、砂糖が2袋(2貫、120k)そのまま乗っていました。操縦員も誰も皆忘れてしまっていたのでした。 あの屋久島の上空でエンヂン不調の時に、それを知っていたら恐らく捨てていたであろう品を忘れていたばっかりに持って帰り、当時としては貴重品が土産となりました。

 たしか1袋の半分は整備してくれた整備の下士官達に、残り半分は指揮所へお土産として。あとの1袋は私たち4人で分けた様に思うのだが。私は風呂敷一杯入るだけ入れて下宿に持って行った様に思う。或いはメリケン袋一杯だったかも。その後、1週間の休暇を貰ったのだが、仙台以南,石巻以北には行かないようにと云われて行く所はなく、下宿で一晩、砂糖の大御馳走になる。物々交換したのだろうが、餡餅、ぼた餅、黄な粉餅、ぜんざい、汁粉と兎に角、砂糖をふんだんに使ったもんばかり。私に御馳走と云うことで下宿の人々、近い人々が一番喜んだのではないかと思う。

そして、1日か2日して、B29が初飛来して、休暇は取り止めとなり、平常以上の飛行訓練が始まった。


 戦後50年、今考えるとなつかしい青春の一コマである。青島空から松島空に転属になった同期生は、約14名、うち終戦迄に戦没した同期は4〜5名である。平成7年、鹿児島6月灯参加の時、松島空より一緒に行った同期生、宮永修(操縦員)氏の話によると、その時に搭乗した私の操縦員は神崎上等兵であるという。
(平成7(1995)年8月28日 記す)







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