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(10) 沖縄から内地へ


 さあ大変、内地はおろか沖縄周辺の気象情報を全然聞いていないと云うことと、地上に何処に退避すると云う事を報告していないことである。又あわてているとはいえ、何処へ行くかも知らないで飛行機に飛び乗り飛び立つなんて搭乗員のすることかとも思うが、今は何とか連絡を取り、天候予測を教えて貰う事が第一である。そうしなければ万一の時は行方不明となり、敵と交戦自爆しても戦死あつかいとはならず、もっと悪くすれば、その様な飛行機、搭乗員はいなかったと云うことにもなりかねないからである。沖縄と内地と云えば天気も違うし、沖縄が晴れだから内地も晴れとは限らない。

 暗号文を作り、基地と連絡は取れたのだが、こと天気のこととなると全然教えてくれない。唯「天候不明」と返電があるだけである。操縦員に「内地の天候不明」教えてくれないと報告すると了解はしてくれたものの、少し機嫌が悪くなった様だった。そして電信機に一番近い上部銃座より見張りにつく。見張りといっても乗っている九六陸攻は今で云えば廃品であろうが当時としては一機でも大切な時、少々の部品が無くても飛べて内地に持って帰れたら修理して使えると云うポンコツ機。上部見張りにつくと云っても上部銃座の風防はなく、唯7.7粍(ミリメートル)機銃の銃身が外に出ているだけ。見張りと云って首でも機の外に出そうものなら、首を風圧で引き千切られるばかりである。銃座の下に座って唯見える空をながめているだけ。風通しは良いし、内地に近づくにつれて寒くはなるし、高度はどれ位で飛んでいるかは分らず。

 ふと朝食のことを思い出して握り飯にかぶりつく。温かくはなかったけれど、冷や飯でもない様だ。寒いと思い出したら兎に角寒い。魔法瓶の味噌汁をと、フタを取った時の暖かそうな匂い、大豆をすりつぶした「ご汁」(大豆をすりつぶしたものを呉といい、それを汁に入れたので呉汁という。)だったけれど、その美味しさ。これも役得か。湯呑み(軍隊のはアルミ製である)二杯ばかし飲んでやっと人心地つく。この時の味は今でも心底に残っている。戦後も飲んだが、あの美味しい味はしない。

 そして、機長の予備仕官の所に持って行ったのだけれど、その頃は天気は雲量10(雲量は0から10で表し、0は快晴、10はベタ曇り)、視界2〜3キロ位であった様だ。機長は機位の確認に忙しく、食事どころではなかった様で、いらないと云われ、操縦員に持って行く。 握り飯もご汁も二人の操縦員が全部平らげてしまい、機嫌もなおり元気も出た様で、こちら迄が安心感を持つ様に、飛行機はまかせると云うか全幅の信頼を持つ。

 その時、操縦員から「地上から天気情報の通知がないのは当然で、天気を知らせて敵に盗聴された時「○○地区は天気晴れ、風速○米、雲量0、なんて知れたら、空襲して下さいと云うのと同じことだ」と教えられて、成る程と感心したりする。だけど、こちらは天気は段々と悪くなってくる様だし、引き返すと云っても戻れるかどうかも分らないしで、また段々と心細くなってくる。そのうちに濃霧か霧雨になったらしく、風防に雨筋が走り始める。雨雲で積乱雲(入道雲)ではないので乱気流ではないが、やはりゆれる。雲の上に出ようと云うことになって上昇して行くが、雲の上にはどうしえも出られない。寒いし何も見えないという事は心細いものである。どの位上昇したかは覚えていないが、大分上昇したのだろう。

 とうとうあきらめて雲の下を飛ぼうと云うことになったのだが、今飛んでいるのが海の上か陸地に近い所を飛んでいるのか機長の予備仕官は機位不明、今何処を飛んでいるか分らないと云う。沖縄を飛び立って北に向かっているのだが、風を右から受けているか左から受けているか飛行機がどの位流されているか全然分らないと云う。

 東に流されていれば四国の方になるし、西に流されていれば対馬海峡或いは朝鮮半島になるが対馬海峡を飛んでいれば、今の視界不良では日本海に出るだけとなる。雲の中、雨の中を飛んでいた為かエンヂン音も同調しなくなり右左の音が別々に聞こえるようになる。右エンヂンが不調となりプロペラの回転が目に見えて落ちてきた様に感じる。搭乗整備員はいないし、副操縦員がいろいろとやっている様だが回転が早くなったり遅くなったり不安定である。エンヂンでプロペラが回転しているのか風圧で回転しているのか。

 高度を徐々に下げているうちに、ふと前方に島か雲かもやの中から現れて見えてきたので不時着しても助かると思い、機長(予備仕官)に位置、何と云う島かを尋ねてみるが分らないとの返事しか返って来ない。尤も地図は持たないのだから止むを得ないのだが。直感的に屋久島だと思い機長に「屋久島です」と云うのだけれど、時間的にまた飛行機の早さから云っても屋久島ではないと云う。では何処ですかと聞いても返事はしてくれない。

 もうこちらも命がけ。操縦席に行って島の上空を一周出来ますかと尋ねたら、何と一周してくれた。エンヂン不調機で旋回すれば失速墜落の危険は十分にあるのだけれど。島の形が分り、屋久島と確信が出来たので操縦員に「このまま北上すれば開聞岳にぶつかります。そうすればその上(北)に鹿児島空が有ります」と、もう到着した様な気持ちになって報告をする。何故、屋久島を知っていたかと云うと、鹿屋から台湾に飛ぶ時に、屋久島の丸い形と種子島の細長い形を見て、それから対空見張りについたので、とても屋久島の形が印象に残っていたからである。

 そして開聞岳(かいもんだけ)を見て鹿児島空の滑走路が見えた時のうれしさ。脚を下してそのまま滑走路に滑り込む。なつかしい鹿児島空、昭和18年(1943年)4月入隊して19年3月予科練を卒業する迄、錬われた航空隊。どれだけか叩かれ、どれだけか涙と汗を流した兵舎。今は唯もうなつかしいだけであった。



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