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(8) 陸地はすぐ近くに見え


 陽が昇ってから、陸地はすぐ近くに見え1万か1万5千米(メートル)位の距離に思われ、泳いでも行けそうでした。陸地が遠くに見えたので、皆は助かるのは間違いないと思っていた故か割におちついていました。私にしてみれば、十月初旬に松島空に着任して二週間もしないうちに、出撃、薄暮攻撃、雷撃、撃墜され戦死者漂流、と一度に何もかも経験した?させられた?ものです。

 確か一日目は昨夜の戦果の話やら、愛機を撃ち落した敵機は帰っても空母はいないだろうとかの話だったと思います。また救命筏を拡げる時、飛行機から離れた所で拡げたのは飛行機が沈む時に巻き込まれないのと飛行機の破片でゴムの部分にキズがつかないようにする為だと聞かされました。ゴムの部分に孔があくと、空気が漏って筏が役に立たなくなる為です。

 唯じっとしてゴムボートに乗っているだけ。いくら南とは云え、ずぶぬれの飛行服を着て、じっとしていると寒くガタガタとふるえてくる。救命胴衣をはずし身軽になっても歩く所もないし、本当にじっとしているだけである。時計も役に立たず、太陽の高さで何時頃だろうかと思ってみるが東も西も分らないところでは太陽が昇りよるのか沈みよるのかも分らない。

 少し、太陽の光が暖かく感じられる頃に交代で眠る様にと云われる。夜は起きていないと寒さと疲れの為、寝るとそのままになってしまうから、今の暖かいうちに眠るのだと云われ成る程と思う。そうして漂流が始まる。

 飛行服が夏服だったからか、日中の温度で、着ていても何とか乾き、靴と足だけが白くふやけている様だった。筏ににじみでる海水を手とか帽子ですくい出したり、ねてしまったり、頭も大分いかれた様な気分で余り思考力も無く、唯ボンヤリとしている。 積んであった乾メンポウも、水がなくては食べれるものではなく1ケか2ケ位。兎に角、口がかわいて喉を通らない。

 陸地が遠くなったりかすんで見えたりする。時計も磁石もなし。何日たったのかも分らない。畳3枚位の大きさの筏に、ただ座っているだけ。 海が荒れていないのが幸いであった。朝日が登って、体が少し温かくなってきた頃、爆音が聞こえ出した。今迄何も話さず、波の筏を打つ音だけだったのが、次第に近づいてくる爆音に敵機?味方機?と一時緊張したりしたが単機の爆音なので味方機と分りホッとする。何故なら、敵機なら決して単機では飛ばないから。高度は割に低く飛んでいる。

 機長が信号弾の油紙を破って出すが、撃ち方を知らないらしく副操縦員が飛行機をねらって撃つ。私は信号弾の撃ち方なんて全然知らないので、唯だまって眺め、飛行機を見ているだけ。「真上に向けて、続けてうて」云う様な声がして、また撃ち上げる。続けて撃てと云っても、信号銃は一発うって薬莢を取り出し、また弾丸を装填してうつので、そう連射はできない。2、3発撃っただろうか、横を向いて飛んでいた飛行機が機首をこちらに向けて様だ。気付いてくれたのかも知れないと、又1、2発撃った様だ。

 飛行機が上空に来て高度を下げ旋回してくれた時は「助かった」と思いはしたものの手を振り動き回って嬉しさを表現する程の元気はなく、ただ飛行機が上空を旋回するのを見ているだけであった。やがて飛行機も飛び去り、また元の静けさが戻ってくる。「助かるぞ」と云う気持ちと、「この大海原、また来て見つけてくれるかな」と思う気持ちと2つが頭の中をかけめぐっている。

 それからどの位時間がたったのか分らないが、大発(だいはつ、大型発動艇の略)が一隻こちらに向かってやってくる。船の形が先に見えたのか、発動機の音で気がついたのかは分らないが、こちらに来るのだけは確かな様であった。だがただ眺めているだけ、誰も口もきかなければ動こうともしないようだった。

 船が来て、船に引っ張りあげられた時、いきなり頬っぺたをぶんなぐられたの迄は知っていたが、後は全然分らない。顔が痛くて目がさめた時は港に船は泊まっていて、未だ船の上だった。
軍医の診察を受けたかどうかも知らないが、その時になって、台湾であることを知り、フィリッピンを出撃して落とされて大分北へ流されたものだと驚いた。







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