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(9) 台湾から沖縄へ


 幸いに、ペアの一同元気だったので、台北に送られて、そこの航空隊に仮入隊する。飛行機はないし、何か便が有れば内地に帰れるだろうと思っていたら、中攻(中型陸上攻撃機の略)の故障機が有るから、それを整備して内地まで持って行く様に云われる。

 兎に角、着の身着のままの素寒貧(すかんぴん)、早く内地に帰らなければと整備員と一緒になって二日程かかっただろうか。整備し、なんとか大丈夫だろうと云うことになって、驚いたことには、砂糖(ザラメ)を16貫60kを2袋積んで帰ることであった。整備された飛行機なら120k位は何でもないのだが、整備して試飛行もしていない飛行機に積んでいくのだから。それも誰に頼まれたものでもなく操縦員が内地への土産に持って帰るのだと云う。

 どうやって話をつけたのかは知るよしもないが、飛行場のトラックを無断借用して、砂糖工場に行き2袋貰って来たのだが格納庫の様な大きな倉庫にザラメが山積みされていて、工場の人が「ここに置いていても何も役に立たない。内地に持って行って始めて役に立つのだから必要なだけ持って行きなさい」と云う様な事を言ってくれたのだが、こちらはただザラメの山にびっくりするだけで、手ですくってなめてみても、そうなめられるものでもなし。他に袋とか風呂敷も持たず2袋だけ貰って帰り、そのまま飛行機に積み込み、長居は無用とばかりに沖縄へ向けて飛び立った。

 夕方、沖縄の小禄飛行場(おろく、現那覇空港)に着陸する。大分飛行機はいた様に思うが、列線の端の方に駐機して滑走路より一寸外れた小高い山と云うか丘の様な所の宿舎に向かう。 その時、地元の人々だろうか老母と孫の様な5、6才の男の子が道の端で一生懸命に日の丸の旗を振ってくれているのが目にとまった。よく見ると、それこそ一糸もまとわぬ産まれたままの姿で笑顔で一生懸命に旗を振ってくれていた。その姿を見た時、「玉砕となれば、こんな小さな子供までも死ぬのだろうか、その前に俺たちが敵をやっつけて死ななければ」と強く心に思ったものだった。

    その時の光景は今も忘れられない。平成5年11月に沖縄旅行に行ったとき、小禄の飛行場跡が
    荒地か砂糖キビ畑になっていてくれたら、平和と云う事が実感出来るのだがと思っていたが、
    現実はきびしく隊門、周囲は鉄条網で写真をとることも出来なかった。
    唯周囲の道路をタクシーで廻りながら、あの時の山(丘)はあれだったろうかと思うばかりであった


 翌朝早く、未だ暗いうちに起こされて「空襲のおそれあり、準備出来次第空中退避せよ」と云われる。後割の食料を貰いに炊事場に行くと、もう状況が伝わっているのか、あわただしい雰囲気につつまれている。握り飯を貰い、お茶を貰おうとするが、何処にお茶がわかしてあるのか分らない。初めてのホウスイ所なので、探していて遅れて飛行機から置いてきばりされてはかなわない。 握り飯を貰ったすぐ側に汁としゃくが置いてあったので、それをすくって魔法瓶に詰めて飛行機に急ぐ。増加食なんて探すひまもない。

 飛行機に着くと云っても車で行く訳ではなし、走って滑走路を横切り、昨夜駐機したと思う方向へ、兎に角走っていくのだから大変である。やっと飛行機を見つけて乗り込み、持ち場を点検して確認し外を見ると燃料を補給中であった。エンヂンを尋ねると、昨日ここまで無事着いたのだから大丈夫だろう。今ここでエンヂン点検していたら、早くても2時間位はかかるだろうから、そのまま飛ぶのだと聞かされる。

 そのうちに満タン?となり、滑走路の方へ移動する。少し明るくなりかけていて、飛行機が動いているのや地上員が走っているの等が見える様になって来た。滑走路の端で試運転、今のところエンヂンは調子良く響いている。だが、滑走路は未舗装の為、一機が飛び立つと砂煙がもうもうと立ちこめて、一寸先も見えない。それが或る程度おさまる迄待たなければ飛ぶことも出来ない。

 砂煙がおさまって飛ぼうとすると小型機が途中から割り込んで離陸していく。どの位待っただろうか。長い時間でもあった様だし短い間であった様にも思う。離陸してから「あっ」と思った。一番大切なことを思い出し、操縦員におそるおそる空中退避をどこにするのかを尋ねたら、このまま内地に帰るとのことであった。







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